「これ、きみのではないかな?」
羽毛をなでるような滑らかな声。どこか中性的だけれど、話し方もはきはきとしていて分かりやすいその声に、自分が呼ばれたのかと思って振り向いてみたら。
そこには王子様がいたのです!
昼休み。教室のど真ん中。みんなが弁当を広げている横で、メディアは興奮しきったように立ち上がる。紅潮した頬。にっこり弧を描いた薄紅色の唇。なにより、今までで一番きらきらした瞳を見てしまえば、きっと今日はこの話で終わってしまうだろう、と簡単に予想が付いた。何せこの教室に入ってきた瞬間からどこか浮足立ったような様子だったのだから。アタシは半ば諦めながら自分の弁当を広げる。きっと同じクラスだったら業間休みも飽きることなくこの話題だ。
話を聞くのはいいけれど、昼休みだって無限じゃない。殊更ゆっくり食事するメディアをまずは席に着くよう促す。
「メディアも、とりあえずお昼食べたら?」
「そ、そうですね、わたしったらつい……」
恥ずかしそうに笑いながら椅子に座ったメディアは、いそいそと弁当の包みを広げながらさらに話を進めていく。
「それでですね、その王子様、わたしの単語帳を拾ってくれたのですけれど、どうやらこの学園の高等部の方みたいで」
ブレザーを着ていらしたので間違いないはずです、と小さく切られたサンドウィッチにかじ りつく。
確かに、ブレザーを着ているなら高等部なのだろう。中等部はセーラーなのだから。制服が分かれているのは統合される前からの名残だそうけれど、買い替えだって面倒なのだし、統一してくれたっていいじゃない、とはよく思う。まあどちらも可愛くてアタシにぴったりだから文句はないのだけど。
「どういうひとなのよ?」
「女性なんですけれど背が高くて……金髪の、……ああ、わたしったらそういえばまだお礼もできていないのに名前も知りません……。どうしましょう」
「金髪の王子様ねぇ」
アナタが好きそう、と口の中で小さく呟く。メディアは今年の春に転入してきたばかりで、付き合いは短いけれどどこか夢見がちな女の子だということは十分に知っていた。言葉の端々からは箱入り娘の香りがプンプンするし、転入する前は共学じゃなくて女学校に通っていたっていうことも聞いてる。だからそういえば具体的な恋バナらしい恋バナなんてしたことがなくて、……そうするともしかしてこれがこの子の初恋なのかしら?
「どなたかご存じですか?」
「これだけで分かったらアタシきっと探偵になれるわよ。金髪なんてこの学校、うじゃうじゃいるし。他に情報ないわけ? 髪型とか、リボンの色とか」
そこら辺にあるマンモス校ほどではないけれど生徒数は多い。高等部もあるから、なおさら人探しは困難になる。アタシみたいによっぽど有名人だったら分かりやすいのだけれど。
「ええと……。ボブヘアーで、確かリボンの色は緑で、……あとは、そうですね、海の香りがしました」
「……そしたら、生徒会長じゃないかしら」
「そうなのですか?」
「え、うん、多分」
海の香り、と言われると思い浮かぶのはヨット部に所属しているあの人だとしか思えなかった。顔だってまあ、良いし。王子様かと言われると疑問が残るけれど。
「まあ! そうしたらこの後ぜひお礼に伺いたいのですけれど、流石に高等部の方がどこにいらっしゃるかなんて分からないですよね……」
落ち込んだように目を伏せたメディアに、アタシはとうとう小さくため息をついた。こんなに世話を焼くような性格だったかしら? けれどどうにもメディアは放っておけない雰囲気を纏っていた。別クラスなのに仲良くなってしまっているのだから、これはもうきっとどうしようもないことなのだ。
「とりあえず生徒会室でも覗いてみたらいいんじゃないの」
あの後結局ゆっくり食事を終えたメディアのおかげで昼休み中に生徒会室までは行けず、今は夕方。今日は生徒会の活動日のはずだから確実にいるはずでしょ、とメディアの手を引いて普段は通りがかることもない生徒会室まで連れていく。アタシもメディアも今日は部活が休みだから丁度良かった。
「あの方です!」
「わ~やっぱり生徒会長だったのね」
窓からこっそり覗き見てみると、生徒会長と書記の二人が何やら作業中だった。他のメンバーはどうやらいないらしい。それにしても入りにくい雰囲気ね、とメディアをちらりと見てみると、ぽぅっと生徒会長に見惚れていた。完全に、恋する乙女って感じ。
「それじゃあ、ちょっとお礼を言ってきますね」
そうして幸せそうに微笑んだメディアがあっという間に生徒会室へノックをして入っていく。この行動力ばかりはアタシには理解不能だった。メディアの時々こんなふうに思いきった行動をするところは、まあ、嫌いじゃないけれど。それにしても、名前だってまだ知らないはずなのに。そう思いながら、やや頬を染めて生徒会長に頭を下げているメディアを見つめる。最初は怪訝そうな表情をしていた生徒会長も、合点がいったような顔をしてからは若干照れている。それからしばらくして戻ってきたメディアの瞳は輝き200%といったところ。
「お名前を、教えていただきました!」
はにかんだメディアはアタシの手を取ってぎゅっと握る。あたたかくて小さな手だ。普段はひんやりとしているのだから、よほど興奮しているのだろう。
「ありがとうございますエリザベート!」
「お礼を言われるほどのことはしてないと思うけどね。ま、よかったじゃない」
いっそ生徒会にでも入っちゃえば、なんて冗談めかして言う。別に、背中を押そうと思ったわけじゃないけれど、メディアが所属する家庭科部は月に一回程度の活動だし、成績だって先生からの評価だってそう悪くない。中等部だからって入れないわけでもないし、何より、あの人は高等部の2年生だ。普通に過ごしていればそうそう会うことはない。きっと、メディアだったら生徒会くらい入りそうだな、と思ったから言っただけ。だから、メディアが先生に相談してみます! と意気込むのは予想通りだった。
最近、生徒会に女子が入った。
どうやらその女子生徒はイアソンに助けられただか何だかで一目惚れをしたらしい。それでわざわざ生徒会にまで入ってくるのだから、盲目というべきか。しかしながらイアソンのせいで慢性的に人手不足な生徒会だ、てきぱきと動いてくれる彼女は非常に助かるので、ぼくとしては何の問題もなかった。そう、僕としては。
「いや問題大有りだろうが!」
昼下がりのカフェテリア。クラスメイトであるアタランテと、イアソンの三人でテーブルを囲んでいると周囲2,3席ほどは人がいなくなる。原因は十中八九イアソンだろうが、まあくつろげて快適だ。いまさら人の目など気にならない。生徒会活動のこまごまとした話もここですることが多いからむしろ好都合ではある。
「……その女子は、イアソンに一目惚れをしたのか」
アタランテがちらとイアソンを横目で見る。視線を受けたイアソンが、文句があるのか、と言わんばかりに視線を返す。
「この、自己中心的で傲慢で高慢ちきだが志だけは立派なイアソンに?」
「アタランテ、お前実は私のことが好きだろう」
「大嫌いに決まってるだろうが」
大嫌いだったらなぜ食事を共にするのか、とは言わないでおく。同じ穴の狢だからな。ただまあ、そう。この、好きになるにあたっては一般的にはどうか、と思う性格の持ち主のイアソンだが、一目惚れをされるというのは実はまあない話ではない。女子の間でどうかは知らないし、アタランテの友人もそう多くはないから中々話が伝わらないのだろうが、イアソンはまあそこそこ男子に一目惚れされる確率は高かった。何せ見目はいい。素行だって基本的には悪くない。素直で頭がいい、という面もあるため教師陣からの評判も上々だ。が、しかしアタランテの言うように根の性格があまりにも一般受けしないためか、男子生徒たちの恋は早々に萎んでいく。
その点を鑑みると件の女子生徒――メディアは特異な存在だった。生徒会に入ってからの短い時間で何度理不尽に振り回されようと彼女は燃え上がる。彼女が火だとすればイアソンの言動はすべて油だった。燃えるような恋とはああいったものをいうのだろう。燃えているのはメディアだけだったが。
そして思うに、イアソンはそんなメディアに絆されつつある。それが恋心ではないのだろうということは、なんとなく察せられたが、懐深くに入ってきた猫を引きはがせずいるかのように、イアソンはメディアに強く出られない。最近は非常に分かりづらいが可愛がっている様子さえ見せる。
――そのことを、イアソン自身が苦々しく思っている。
「私は、メディアにメディアと同じような感情は返せない」
深い海に朝日を沈めたような瞳が、虚空を睨みつける。どうしてここは船の甲板ではないのだろう、とふと思った。いつかどこかで、同じような目を見たような気がした。
「まあ汝が人を愛せるとは思えないが」
「ひどい言い草だな」
「だが、同情で付き合おうなどと思ったりするなら許さんぞ。それはあまりにも不憫だ」
必要があればやりかねんだろう、とアタランテはイアソンを見ることもなく、プラカップに入ったカフェオレを一口飲む。
「……当たり前だろう」
眉を下げたイアソンは、気分を払拭するかのようにアイスレモンティーを一気に飲み干した。
物心ついた時から、海のことが好きだった。そして船のことも。幼いころのおぼろな記憶の中で、もう声も思い出せない母の言葉だけは忘れずにいる。
――まるで、船に恋しちゃったみたいね。
当時は『恋』の意味など分かるはずもなかったが、年頃になって周りにそういう話題が増えてきたとき、なんとなく納得した。確かに恋に似ているのかもしれない。
だから、きっと恋も愛も遠いものだろうと思っていた。成人したらあの家など捨てて海辺で優雅に暮らしてやろう、と考えるくらいに。
だから、予想外だったのだ。
友人とも言えない距離。ただの後輩と言うには近い場所。つかず離れずの位置に菫色が揺れているのは。
恋でもない、愛でもない。友情でもない。ただ、もうそういうものなのだ、と理解してしまった。彼女を幸せにしてやりたいとは微塵も思わないが、不幸にだけはしたくない。そしてどうせなら笑っていてくれる方が気分がいい。
出会いは間違いなく偶然だったが、こうなることはおそらく必然だったのだろう。もしかしたら魔法にでもかけられたのかもしれないが。
「はい、今日のおやつです」
紙皿にきれいに並べられたクッキー。家庭科部だというメディアは時々手製のクッキーやらを持ってくる。生徒会活動中は頭を使うので非常に助かる話だ。その上仕事裁きだってなかなか悪くないのだから、まったく一目惚れ様様である。
パラパラと適当にめくっていた紙の束は一旦無視してクッキーを一つ頬張れば、ほろりと甘く崩れていく。
「今日はバニラか」
「はい!」
「紅茶もくれるかな? メディア。休憩にしよう」
「それでは用意しますね」
くるくるまめまめしく働く小さい背中を目で追いかける。同性として見てもかわいらしい彼女が私のことを好きだという。他の人間に惚れていたのならもっと幸せだったろうになぁ、と思わないでもない。切欠は目の前で落ちた単語帳だったのだから、分からないものだ。
遠くでどこかの部活が歓声を上げている。ブラスバンド部のトランペットはようやく上手くなってきた所で、合唱部からはとびきり音痴な歌声が響いている。文化祭が近いから張り切っているのだろう。我がヨット部はシーズン終わりで、来年のこの頃はもう大学受験も大詰めの頃合いだった。
分厚い書類どもはこれから更に増えていくだろう。頼られる生徒会長とは辛いものだ。お陰で部活に割く時間は見るからに減っている。しかしこちらも内申には非常に有効である。希望する大学は私がもっとも憧れ頼りにする男も進んだ、海の近い有名国立大学だ。頼る綱は多い方がいい。家庭に信用が置けないからこそ。
……私が卒業したらメディアはどうするんだろうな。来年は中等部三年、私がいなくなったら高等部一年。生徒会にずっと残る、という選択肢がこの恋心を煮詰めたような少女にあるのだろうか。
蒸気が上がる。ティーポットが温められていく。ティーバッグを使わないのはメディアたっての希望だった。簡素なトレイに乗せられたティーカップ。スティックタイプの砂糖は一本ずつ。メディアにはミルクも。この数か月ですっかり見飽きたものだった。
ふと、立ち上がって側に寄ってみる。私よりも低い背が、少し震える。それでも砂時計できっかりと時間を計られた紅茶は淀みなく注がれていく。ぽっと染められた頬。赤い紅茶。ピンク色をした丸い爪。まったく、悪趣味だった。どうしてこういう、自分で言うのもなんだが、面倒臭い女にこの少女はここまでするのだろう。
溜め息を吐く。滑らかな手が動きを止める。ティーポットから離された手を戯れに捕まえてみれば、戸惑う視線がこちらを見た。
「あ、の……どうかなさいましたか、」
ああ、きっと恋をしてしまえれば終わるのも一瞬だ。しかし私の心はいつだって船にある。まるで誰かに呪いでもかけられたかのように。船だけがあればいい。家族の無い私にはそれだけが必要なものだ。
柔らかな手が遠慮がちに私の手を握る。紅茶が冷えてしまいます、とそれがまるで逃げ道であるかのようにメディアは呟いた。
「それもそうだね、すまなかった」
素直に解放して、トレイを持ち上げる。戸惑う視線が背中に突き刺さるのを感じた。
――船だけがあれば良かったのだ、本当に。
積み上げられた書類を避けるようにして、メディアを隣に座らせる。並べた紅茶とクッキー。いつの間にか聞こえなくなっているブラスバンド。見つめた菫色の瞳。可憐だな、と思う。人に愛されるべき、愛されている少女だ。すべてが羨ましく思えるほどに。
「……もし、私がきみに同じ大学に来いと言ったら、きみは来るんだろうね」
「ええ、と」
「なあ、メディア。きみはきっと一目惚れなんかしなければよかったんだ」
「……イアソン様?」
自分らしくない、と思う。けれど手放すべきではないと思うのだ。結局この少女は私に恋をする他なかったのだから、なら今度こそは。……今度こそ?
「……メディア」
情けないくらいに声が震えた。伝えるべき言葉がない。当然だ、今の私はなにも持たないただの女だ。海を夢見るだけの。
メディアが俯く私を覗き込む。なんだか嬉しそうだった。感極まったような、そういう目で私を見つめている。
やっと成就したのだ、と言わんばかりの。狂喜に似たなにかを思わせる美しい微笑みで。
「イアソン様。あの、わたし、……わたし。……恋や愛がわたし達を別とうとしたって、絶対に離れませんからね、もう絶対に」
運命、だったんだろう。
なにも言えない代わりに、もう一度柔らかな手をとり握る。あたたかくて優しい、私と大きさのそう変わらない、ただの少女の手。
同情ではない。恋でも愛でもない。けれど私は彼女のもので、彼女も私のもの。それだけは揺るぎ無いのだ。