ちら、と時計を見る。別に見る必要は全くないのだが、どうしても見てしまう。日光が当たらなくても時間感覚を保っておくため、とそこかしこに設置されたデジタル時計は23時45分を指していて、ついでにいえば表示されている日付は2月14日だ。昼間は賑わっていた食堂も今はチョコレートの香りが充満したまま、わずかに残るサーヴァント達でさざ波のような静けさである。もう一度時計を見る。46分。隣で駄弁っていたカイニスが、そんな落ち着かないイアソンの様子を見て鼻で笑った。
「見捨てられたんじゃねぇの」
「べ、別に! なんの話だ!」
指摘されて慌ててウィスキーを一口呷る。口に残った仄かな甘みに、また今日のイベントを思い出してイアソンは苦々しげに口を曲げた。テーブルを占領してアルゴノーツで飲み始めたのはいいが、こういう、遠慮の無さを考えると今日は避けた方が良かったのかもしれない。丁度ウィスキーをもらった、というアスクレピオスの誘いに乗らなければ、とイアソンはやや後悔をし始めていた。
「先程から時計を気にしているようですが……」
カストロの空いたグラスに酒を注いでいたポルクスが不思議そうに目を瞬かせると、水を得た魚のように嬉々としてカイニスがそれに答える。カイニスだけは柳生に以前もらったという日本酒をちびちびと飲んでいたが、その減りは随分早かった。
「あぁ、知らねぇのか、こいつまだメディアにチョコ貰ってないんだと」
「まあ! それは……」
「見捨てられたんだろう」
「あのメディアがイアソンにチョコを渡さないとは……」
「……哀れだな」
驚くポルクスに続いて、アタランテ、カストロ、アスクレピオスが口々に呟いた。普段から辛辣な物言いが酒の効果もあってか更にグサグサとイアソンに刺さる。
「なんなんだお前ら!」
「だってオレらは貰ってるしよぉ」
「多分汝だけだぞ貰っていないのは」
「え、嘘、マジ?」
「朝会ったときには貰ったが」
「カストロもポルクスも!? ヘラクレスもか!?」
双子が頷き、左隣に座るヘラクレスからも同情されるような視線を投げ掛けられて、イアソンは遂に天井を仰いだ。無機質な蛍光灯の光が眩しい。
「だからみんな貰っているんですってば」
「うそだろ……」
呻く間にも、直近でメディア・リリィになにかしてしまっただろうかと思考を高速で巡らせる。昨日。バレンタインの準備がありますので、と朝食以来会っていない。一昨日。朝昼晩と食事を共にして且つ訓練も一緒だった。特に変わったことはしてないしされてもいない。全くいつも通り、円満夫婦として過ごしていた時期と同じくらい穏やかに過ごしていたようにイアソンは感じていた。
うん、俺やっぱなんもしてねぇ。尚更、なぜ貰えないのかが分からん。イアソンは机に突っ伏す。額に当たる冷たい感触が優しく感じられる。右隣に座っていたカストロにぽん、と肩を叩かれなんだか無性に泣きたくなった。
「つーか、珍しくお前の周りで見なかったよな、メディア」
「昼食も夕食も共にしていないのは珍しいとは思ったが」
カイニスと、カイニスから一口日本酒を貰っていたらしいアスクレピオスが揃って首を傾げる。
「……朝から会ってない」
「……まあ、飲め」
なみなみとカストロ手ずからイアソンのグラスにウィスキーが注がれる。あまりこういうことをしないカストロが珍しい、と場がややざわめいた。それにカストロはやや気恥ずかしげに目を伏せながら、更に自分のグラスにも新たに酒を注ぐ。
「どうせヘラクレスもいるのだ、今日ぐらいは潰れても構わんだろう」
「◼️、◼️◼️!」
肯定するヘラクレスにそうだろう、とカストロは得意気だった。
イアソンは、それを見てぐ、と琥珀色の液体を飲み干す。今日はもう酔ってしまいたい、と思えば箍が外れたかのようだった。焼けるような喉の感触が、一気にイアソンと現実とを引き離す。
無情にも時計は23時55分を示している。ぐらぐらとした視界でそれを確認しながら、イアソンはもう一杯!と声高に叫んだ。
グラスに3杯めが注がれるのをじっとイアソンは見つめていた。最早チョコを貰えなかったことなど忘れられそうだ。ああそうだ、今日はこのまま飲んでのんで、そうして寝てしまおう。決意しながらグラスに手を添える。
「……あのう、イアソン様」
不意に、柔らかな声が背後から掛けられる。癖のように見た時計は23時58分。すみれ色が視界で揺れて、イアソンは目をぱちぱちとさせた。チョコレートの香りが一段と濃い。振り向いた鼻先に、顔ほどもある箱が差し出される。真白い箱に、黄緑のリボンが綺麗に施されていた。
「……?」
メディアが箱になったのか……? とついイアソンは混乱する。ふぇ、とつい出た言葉にカイニスとアタランテが噴出した。
「ええと、ハッピーバレンタイン! 遅くなってしまってごめんなさい」
こだわっていたら時間を忘れてしまっていて、と相も変わらず箱が喋っているため、イアソンは混乱しながら箱に手を添えた。ずしりと重い。同時にメディア・リリィの困り顔が見える。
「……チョコか?」
「はい、イアソン様のためのとっておきです」
おお、と周囲がざわめく。自分達が受け取ったものとは格段に違うレベルにややおののいていたが、そういえばこういう二人だったな、と納得すれば特に違和感もない。むしろこうでなければ、とすら思える。
「良かったな」
「開けてみろよ」
促され、イアソンはメディア・リリィを見る。どこか期待したような眼差しが返ってきた。
「どうぞ!」
イアソンはそっと箱をテーブルに置くと、黄緑のリボンをそっとほどいた。
箱を開けると、濃密なチョコの香りが鼻を抜けていく。
船が。
箱に鎮座していた。
おぉ、と感嘆の声が口々にこぼれていく。彼らが冒険をした、あの船だ。細部まで作り込まれ、よく見れば乗員もいる。なるほどこれなら時間もかかるだろう、とそれぞれ納得していると、イアソンが肩を震わせながらメディア・リリィに問いかけていた。
「お前……これを食えと……?」
「はい! 美味しくできました!」
「くっ、食えるわけねぇだろ!!! こんな良くできてるやつを!? 食えと!?」
「折角作ったので!」
「絶対食わん! これは永久保存するからもう1個作れ!」
「いや今から作ってもらう気かよ……」
「別にそれは構わないのですけど……これは食べていただけないのですか? 自信作なのでせめて一口……」
「っ! ~~! ひとくち、か」
イアソンはじっとチョコレートでできたアルゴー号を見つめた。どこを見ても精巧で無駄がない。食べてもいい部分なんてひとつも見つけられそうになかった。
メディア・リリィの食べてほしそうな視線が悩むイアソンを刺す。む、と呻きながら、イアソンは指で、自分を模した様子のチョコを摘まんで食べた。濃厚な、それでいてしつこくない甘味が口のなかでじんわりととけていく。見た目もそうだが、味も相当にこだわったらしい。
「えっ」
「あ」
「!?」
「それを食べるのですか!?」
「俺が俺を食べて何が悪い!」
もうこれ以上は絶対食わんぞ! と言いながらイアソンは箱を閉じる。保存用の魔術はあとでメディア・リリィに掛けてもらえばいいだろう、と考えながら、口内に残るチョコの風味を味わった。
「美味しい、ですか?」
「うまい」
「よかった、ほっとしました」
安心したようにメディア・リリィが微笑む。その手を、イアソンはそっと引いた。
「とりあえず、飲むぞ」
「えっ」
「ああお前はソフトドリンクだな、座っていろ」
よろめきながら立ち上がるイアソンは、そのままメディア・リリィを自分の椅子に座らせるとキッチンへと向かった。
「うわだいぶ酔ってねぇかお前」
カイニスが野次を飛ばしながらメディア・リリィの前に摘まんでいた菓子を起き、その間にアタランテがメディア・リリィが座る椅子とヘラクレスとの間に椅子を新たに置く。しばらくすればイアソンがオレンジジュースを手にテーブルへと戻ってきた。
「よし、仕切り直すぞ!」
イアソンの部屋に入ると、仄かにチョコレートの香りがするのを誰もが感じるだろう。そしてそれが、部屋の隅にひっそりと、しかし大切そうに置かれたチョコ細工から発するものだと、少しすれば誰もが気付く。それは、バレンタインの翌日に正気に返ったイアソンが、それでもこれは食べられるわけがない、と丁寧に飾ったものである。
習作、とされたボトルシップと並んで、その船は冒険を見守っているのだった。