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プランツ・ドール

pixiv公開日 2021年1月7日

観用少女パロヘライア


重たい緞帳の向こうで美しい人形がぱちりと目を開いた。


青年は画家だった。
カンバスを被う一面の青。一筋の白。彼の作品の大多数はそういうものであり、しかし彼はその実物を見たことがなかった。
海。
この街には無いもの。
街を出れば、見に行くこともできた。けれど彼はなぜかどうしてもその一歩を踏み出せず、人に聞いた情報だけでカンバスを埋めていった。彼のアトリエを見た人は言う。まるで、彼は溺れているみたいだ、と。


青年はひとりだった。
生来から寡黙で、人付き合いというものを上手くできた試しがない。背は欅のように高く、力も強く。力加減ができないうちから化け物と囁かれた彼に近付く人間はほとんどいなかった。昔はそれを寂しいとも思ったが、最近は感覚が麻痺しつつある。パトロンになってくれている医者と、片手で足りるほどの友人。下の階に住む大家夫婦。それから画材屋の店主とその隣の生活用品店のおかみさんが彼の主な話し相手だった。

そんな彼が、その人形を手に入れたのは偶然だった。
埃っぽい街を散歩していたある日。普段は立ち入らない一角にふと足を踏み入れた。雑多な住宅街。ちらほら見える埃の積もったショーウィンドウ。染み付いた油の香り。自然と歩みが早くなるような、寂れた場所。そんな中にその店はぽつんと、異彩な存在感を放っていた。鏡のように磨かれたガラス。なめした革のようなとろりとした色を放つダークオークの扉。今は空っぽのショーウィンドウには、赤い、良く手入れされた絹の敷き布。看板は無いが、ひと目でなにかしらの店なのだと判断できた。異国情緒溢れる香の匂いに誘われるように、金メッキが眩しいドアノブを掴む。
店内はしんと静まりかえっていた。奥に長い構造になっているようで、店の全容は入り口からではわからない。赤い絨毯の長い毛足が青年の足を埋めるように柔らかく包む。間接照明がぽつりぽつりと置かれ、薄暗く保たれた店内に人影はない。美しい人形がいくつか日が当たらない場所に丁寧に座らされていた。まるで眠っているかのようだ。青年は立ち尽くして、少し様子を伺った。店の外でカラスが鳴くのがかすかに聞こえる。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
不意に、店の奥から男が現れた。すらりとした立ち姿はまるでモデルのようだったが、先程の言葉からするにこの店の人間らしかった。男は青年をひと目見ると、すべてを了解したように微笑む。
「どうぞ、奥へ」
それからのことは、あまりよく覚えていない。夢物語のように朧気で、現実味がなく、しかし冷えた人形の柔らかな笑みが突き刺さった事だけが確かだった。

それから青年のアトリエに住人が増えた。
金色の、絹のような髪。白磁の肌。薄紅色の頬と唇。それから金色にも見える不思議な揺らめきを持つ、エメラルドの瞳。しかしそれだけであれば、青年はもしかしたらこの住人を迎えることはなかっただろう。例え、その微笑みに心奪われていたとしても。けれどこの住人は、海を、持っていた。甘いミルクの香りの中に幽かに漂う潮の満ち引き。満月と新月の間に濃さを変える海の香り。海を知らない青年の海に、その人形はなったのだ。
青年は人形にイアソンと名付けた。砂糖とミルク、それから愛情がイアソンの養分であり、青年はそれを惜しみなく与えた。絵を描くときは隣に座らせ、時々イアソンの小さな手に耳を覆ってもらえばそこには海が完成した。太陽が眩しく輝く穏やかな海。雷鳴を轟かせる嵐の夜。北極星を頼りに進む旅人。船は風を受け、海面を裂くように進んでいく。
もう誰も、青年を溺れているようだとは評さなかった。

あたためたミルクに砂糖を溶かし、イアソンの小さな手にカップを握らせる。長い髪がさらりと揺れ、鬱陶しそうにイアソンが顔を顰める。青年が絹のような髪を掬いとれば褐色の大地から逃げるように流れていった。残念ながら、だれかの髪をまとめてやれるほど青年は器用ではなく、ただイアソンの食事の邪魔にならないよう、髪を持ち上げてやればそれだけでイアソンは嬉しそうに微笑む。満たされるような感覚。青年は不器用に頬をゆるめる。
イアソンが来てからというもの、青年は以前に持っていた孤独感というものから解放されていた。それは彼の作品にも、生活にも現れていた。アトリエを埋め尽くすように置かれていたカンバスは整然と片付けられた。その代わりに一枚、分厚く柔らかい絨毯が部屋の一角を占有していた。その上でイアソンは本を読んだり、青年と同じように絵を描いたりすることを好んだ。イアソンもまたやはり、海をよく描いた。青年の描く絵と違うところといえば、そのほとんどが船の上から海を眺めた絵のようだということだろうか。茶色の甲板、広がる海。青空に泳ぐカモメ。まるでイアソンは海から生まれたかのように、それらを自然に描いていった。青年が褒めるとイアソンは人形らしくなくにんまりと笑んで、それから撫でろと所望してくる。それに従ってかたちのいい頭をなぞってやれば、はちみつのようにとろけた顔をするのだ。つられて唇を持ち上げる。本当に、イアソンとの生活は充実していた。

ある日のことだった。青年が買い出しのために暫しアトリエを空けた。その時イアソンは少しばかりついていきたそうに青年を見つめたが、やがてお気に入りの写真集を開き、手をぱたぱたと振った。すぐ帰る、と声をかければ寂しそうに頷く。買い物の度にそんな調子だったために青年はいつも急ぎ足で買い物を済ませ、愛しい海のいる場所へと帰っていくのが通例だったが、この時はいつもより時間がかかってしまっていた。イアソンの洋服と、カンバスの注文に手間取ったのだ。普段であれば夕刻より早く帰りついているところが、空が夜に染まるころにアトリエに着いた。そこでまず違和感があった。明かりが点いていない。イアソンはもう既に電灯のスイッチの場所も、水道の使い方も知っている。写真集に夢中になっていたとして、暗い中で読み続けるだろうか。そして、出たときには閉めていた窓が開いている。なにより、気配が無い。
慌てて階段を駆け上がり、鍵を回して室内を見渡してみると、イアソンがいない代わりに明らかに自分以外の誰かが侵入した形跡と、暴れたらしく割れたティーカップだけが残されていた。
なぜ、と。どうやって、と。怒りが青年の中で渦巻いた。そして気が付けば階段を駆け下りていた。大きな物音に、一階に住む大家の夫人が何事かと顔をのぞかせる。手短に事情を説明すると、少なくとも訪ねてきたような人物はいなかった、と心配そうな表情で告げられた。物音はしなかったか、との問いには、レコードをかけていたのでよくわからないという。夫人がオペラを好んでいることは青年もよく知ったところではあるので、これ以上の情報はないだろうと踏んだ。また駆けだしそうな青年に、夫人は近所をあたってみると提案してくれたが、もう夜にも差し掛かる時間帯であるので、一人では行動しないでほしいとだけ伝えた。
それから、青年は一人通りを駆け、店仕舞いを始めようとしている軒先をひとつ残らず尋ねていった。すると花屋の娘がそういえば、と頬に手を当て何かを探すように空を見つめた。綺麗な人形を抱えた、ボロボロの男がいた、と。東の通りへと抜けていった、という所まで聞いて青年はまた走り出して道行く人々へと人形の行き先を聞いて回った。
そうして辿り着けたのは、もしかしたら奇跡だったのかもしれない。ざんばらになった黄金の髪。眠るように壁に凭れかかった探し人。目立った外傷は無さそうで少しばかり青年は安心して――そして側にいたみすぼらしい男に殴りかかった。男は50歳ばかりだろうか。軽い体は簡単に空を飛んでいく。己が力をセーブできていないことを感じながら、二度三度と振り下ろしそうになる腕を必死で止める。呻く男が謝罪の言葉を吐き出してからも襟元を掴みあげたまま、ただただ男を睨みつけた。怯えた男は弱弱しく言い訳じみた言葉をつらつらと吐き出していく。昔は資産家だった。落ちぶれて彷徨っていたところに、この人形が窓辺に立っているのを見つけた。プランツが高価だということは知っており、売ればまたやり直せると思った。人助けだと思って譲ってはくれないか。
――もう一度殴らなかったのは温情なのか、保身なのか、青年自身にも分からなかった。騒ぎを聞きつけてやってきた警邏に男を引き渡し、青年はイアソンを抱え上げた。無残な金髪が肩のあたりでみじめに揺れる。早く整えてやりたいところではあったが、まずは事情を説明するのが先だろう。重そうに男を引き摺る警邏の手助けをしてやりながら、青年はひとまずイアソンが見つかったことに安堵のため息を吐いた。
ようやく家に帰ることができたのは、時計の針が頂点を指した頃だった。とっくに目を覚まして以来、ぎゅうとしがみついて離れないイアソンをようやくクッションの上に座らせ、温めたミルクを渡す。イアソンのカップは割れてしまったので、とりあえず、と青年のものを使ってみたがどうやらお気には召したらしい。ふうふうと息を吹きかけながらゆっくりと、満ち足りた表情でミルクを飲んでいく。
その横に腰掛けてイアソンの髪を撫でる。男が言うには、逃げようとしたイアソンが咄嗟にナイフで切ったらしい。無茶をしたものだ、と青年もこれには少し呆れた。髪も極上の逸品だと男が隠し持っていたのを取り返しはしたが、元の髪には戻るだろうか。しかしながら、イアソンに髪を気にする素振りはない。もしもこちらの方がいいというのであれば、整えるだけ整えてこのままでもいいのかもしれない、と青年は思った。
暫くそうしていると、腹もくちくなったのか、イアソンが眠たげに瞼を上下させた。ぴとりと凭れ掛かる身体は軽く、温かい。体温というよりも、青年がそう感じたからだろう。やがて本格的に寝息を立て始めたイアソンが、きゅっと青年の服の裾を掴んでいる。離れそうにないな、と苦笑しながらそっと身体を持ち上げ、明かりを消しつつベッドに移動した。
月明かりに照らされるイアソンの表情は穏やかだ。まるで何事もなかったかのように、白いシーツの中で穏やかな空気が揺蕩っている。
――無事で、よかった。
改めて安堵する。青年にとってイアソンはまぎれもなく唯一無二だ。失ってしまうのは、どうしたって恐ろしかった。もし二度目があったなら、今度は誰にも加減ができないだろうという自覚は生まれている。もちろん、二度目など起こさせる気は一切ないが。
明日は夫人に髪を整えてもらおう。それから電車に乗って……。


窓を開けば微かに、波が岩を叩く音が聞こえる。滑るように流れていく景色の遠くに、青く見えるのは。


二人の夢を、柔らかな朝日が見守っていた。
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