最近目が合わないな、ということに気が付いたのは委員会活動も終わりの頃だ。
日誌にその日の活動内容、先生への連絡事項を書き記すのは決まって俺と孫兵の役割で。委員会後に特に用事もないのであれば二人で活動内容を反復しあい、書き残す。そして作業が終わると二人で食堂まで行く、というのがいつからともなく一連の流れとして出来上がっていた。
そうすると自然、過ごす時間は多くなる。孫兵が飼う毒虫達の成長の様子を聞いたり、俺が飼う虫の話をせがまれたり。お互い、その手の話題は尽きないから延々と話し込んでしまい、遅いからと様子を見に来た木下先生に怒られるということも度々ある。それほど話に熱中できる、というのは嬉しくもあり、今後俺が卒業した後は話す相手はいるのか、なんていらない心配もしてしまう。今の一年たちがどれほど生き物にのめりこむかも未知数だ。のめりこまずとも、好きでいてくれれば、責任をもって世話をしてくれれば、それだけで十分な話でもあるが、もしこういう風に話ができなくなってしまえばきっと孫兵は寂しいだろう。目を輝かせながらこちらをじっと見つめてくる熱量を思えばこそ、この情熱に陰りがないことを願ってしまう。
しかしながらこの三日ほど、そういった素振りはなく、寧ろ目が合いそうになると逸らされるばかり。何かしただろうかと考えるも思い当たる事はない。情熱的な話しぶりはそのままに、視線が合わないことの違和感だけが募っていく。
日中の様子を見ていても体調が悪いというわけでもなさそうだ。今日も元気に、逃げた自分の毒虫たちを追いかけていた。
どうしたんだろうなぁ、とぼんやりしながら、滔々と今日の虫達の様子を話す孫兵を見つめる。盛夏も近く、少し日に焼けた肌はそれでも赤みが目立ち痛々しい。涼しげな目元は今はやや伏せられ、瑠璃のようだと陰ながら評される瞳はほとんどこちらからは見えない。いつもであれば確認できるその瞳を見ることができないのがなんとなく、惜しい。自然、身体を低く反らすようにして孫兵の瞳を下から覗き込む。すると、慌てたように孫兵は仰け反った。
「どっ、どうしたんですか」
「いや、最近なんかいつもと様子が違うから体調でも悪いのかと思ったんだが……そうでもないみたいだな!」
体調が悪いときの様子を知っているからこそ、今の孫兵が元気そのものだということには確信を持つ。心の臓辺りを押さえた孫兵の、綺麗な瞳がぱちりと瞬いた。
「まあ、そうですね。元気ですよ」
「ならいいさ」
ようやく合った視線に満足して頷く。姿勢を正した孫兵がほっと息を吐きながら、そろそろ提出に行った方がいいかもしれませんね、と書き終わっている日誌を指差した。とっくに墨も乾ききっている。そうだな、と同意しながら日誌を閉じ立ち上がれば、孫兵もゆったりとした動作で続く。並んで立つと、視線は交わりにくい。もしもこういう時間がなかったなら、この小さな異変には気が付かなかっただろう。
「竹谷先輩とお話ししていると、日暮れが早いですね」
「この前も怒られたもんな」
「あれは竹谷先輩が白熱したからじゃないですか」
「その前とさらにその前はお前が原因だぞ」
穏やかな会話が続けば、いつの間にか先生方の長屋に到着する。廊下は静かに歩け、と木下先生に表面的な注意をされるのもいつものお約束だ。五年生である俺はもとより、孫兵だって足音を抑える術は知っている。交わされる会話の一つや二つ、抑えるのも難なくこなせるが、そこはそれ。この学園で警戒を必要とすることはあまりない。実践、のことを考えれば、他の先生方に正座をさせられることもあるだろうが、この時間、この長屋に先生方がいらっしゃることはあまり無い。なんてったって忍者の時間が近付いている。ごめんなさい、とこれまた表面的な謝罪をして部屋を後にしながら孫兵と顔を見合わせる。ああ、この無邪気な表情がいつまでもあればいいのに、と願ってしまうのは先輩しての性か、それとも。
最近目を合わせられない。相手は誰か、と問われたら竹谷先輩だ。
あの大きな目がこちらを見て嬉しそうにするのが耐えられない。少し高めに響く声が、孫兵、と呼ぶだけでそわそわしてしまう。
そしてその原因も悲しいことに分かってしまっていた。なんていったってよく似た感情の動きを僕はようく知っている。首に滑らかな感触を伝えてくれるジュンコの頭を撫でながら、溜め息を飲み込む。ジュンコの大きな目が僕をじいと見つめて、それから小さな舌がそっと頬を撫でた。
ジュンコたちに愛を告げるのは簡単だ。僕は彼女ら彼らを愛していて、そしてみんなに愛されている確信があるからこそ、気持ちを言葉にすることを躊躇わない。
けれど、相手が人間で、竹谷先輩なのだと思うと、この気持ちを告げていいものなのか分からなくなってしまう。もしも万が一にも嫌いだ、なんて言われてしまったら? きっと立ち直れない。愛しい恋しいと思うのはジュンコたちと一緒なのにそこが決定的に違ってしまっている。怖いんだ。目を見ても気持ちが分からない。きっと嫌われてはいない、ということは僕にだって分かるけれど。虫たちが相手なら簡単なのに竹谷先輩が相手だと思うと途端に冷静さを欠いてしまう。
人間相手がこんなにも難しいだなんて思いもしなかった。こんなにも臆病な自分のことだって、初めて知った。僕を見てにこりと笑う、あの表情を思い浮かべるたびに鼓動が早くなる。あの大きな手が、痛いくらいに頭を撫でるときのことを、いつまでだって覚えていたいと思う。何もかも初めてのことで、分からないことだらけで。それでも、これを相談するのは憚られる。なんとなく、だけれど、竹谷先輩に直接言ってしまうと、何もかもが終わってしまうような気がして。怖いのだ。
「どうしようか、ジュンコ……」
誰よりも一緒にいる彼女は、そんな僕の問いにそっと目を伏せる。分かっているのでしょう。そう言いたげな穏やかな瞳をしながら、そっと僕の頬に自分のそれを触れ合わせる。あと二年も無い。分かっている。進むか、踏み留まるか。長いか短いかも分からない僕たちのこれからのことを考えると、僕の気持ちが決まっていても、やはり恐ろしい、と思ってしまう。足枷にならないだろうか。心残りにならないだろうか。どうせ旅立つのであれば荷物は少ない方がずっといい。けれど。
ああいっそ、なにも言わずにすべて伝わってしまえばいいのに。僕の想いも迷いも、すべて。ジュンコたちに伝わるのと同じように。きっと僕が仔狸やらそういった生き物であったなら、もっと簡単だったのだ。
それでも、ジュンコたちを愛せるのは僕が僕であるからであるし、竹谷先輩とひとときを過ごせるのも、これからを考えてしまえるのも僕が竹谷先輩と同じ生き物だからだと思えば、この苦しみもさほど悪いものだとは思えない。
あの真っ直ぐな瞳を、僕を見つけてくれる視線を、せめて真正面から受け止められるようになったのなら。竹谷先輩の気持ちを分かることができなくても大丈夫な自分に、なれるのだろうか。